台湾の近代史―「主権」の観点から
台湾が注目されるようになったのは16世紀になってからです。海賊、武装商人の根拠地の一つとして利用されるようになり、漢民族、日本人の移民も少なからずいました。また、ヨーロッパ各国から多くの人が来航し、台湾の戦略的重要性に気付いたオランダやスペインが台湾を占領し、東アジアにおける貿易、海防の拠点にしました。台湾の植民地としての歴史はここから始まりました。
オランダ植民統治時代(1624~1662年)
ヨーロッパ船として初めて台湾に到達したのはポルトガル船であり、船員が島の美しさに感動し「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだのがフォルモサ(Formosa)の由来とされています。
1624年から1662年の間、オランダとスペインはフォルモサの部分的な地域を占領していました。オランダは大航海時代の掟:「発見(discovery)」、「宣示(claim)」、「侵略(invasion)」、「征服(conquest)」、「統制(control)」の段階を踏まえて、台湾(南部と北部のみ)を占領しました。当時の台湾は島全体を統一し、主権を宣告できる政府が存在しませんでした。歴史上、「大肚王国」は現れたものの、島の一部しか統治しておらず、完全なる主権(full sovereignty)は有していませんでした。このような状態の台湾は西洋覇権国家の植民地として最適ではあったものの、オランダが台湾を占領している38年間、その範囲は台湾の南部及び北部のみであり、島全体を制御できていませんでした。理由としては当時の台湾は衛生環境が悪く、地形の関係で開墾が困難、また水源の欠如に加えて、オランダ本国との距離が遠かったことなどが挙げられます。その結果、オランダからの大量移民はなく、台湾はオランダの植民地というよりも、貿易の中継地と言ったほうが適切でした。なお、台湾の北部を占領したスペインもほぼ同じような状況でした。
鄭氏政権時代(1662~1683年)
1662年から1683年、鄭成功はオランダ人を駆逐し、オランダに代わって台湾を占領しました。その目的は清朝を倒し明朝を甦らせることであり、身の安全を保障する拠点を確保するためでした。鄭氏は「東寧王国」を建国しましたが、その範囲は現在の台湾台南地区に過ぎず全島でなかったため、完全なる主権(full sovereignty)も有しませんでした。また、鄭氏政権は清帝国に対抗するために「軍団」の形態で台湾に来たので、当然清からの大量移民は不可能でした。従って、台湾は鄭氏政権の植民地でも国土でもなく、占領地に過ぎませんでした。
清朝統治時代(1683~1895年)
鄭成功がオランダ人を駆逐した後、台湾占領地を移転する「条約」を交わしました。しかし、清国が鄭氏政権を征服した後、双方は条約を締結しませんでした。元々、清国は反逆軍の鄭氏政権を滅ぼすために台湾島を攻撃・制圧したのであり、台湾島を領有する事に対しては消極的でした。(征服後も鄭氏の残留部隊や親族は全て清国に送還しています。また、反乱を防ぐために「海禁令」を公布し、清国人民が台湾へ渡ることを禁じました。)多くの文献に示されているように、清国は台湾を「化外の地、化外の民」と見なして、殖民化することは、念頭にすらありませんでした。
ところが、19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が中国に進出してくると、台湾にもその影響が及ぶようになりました。さらに、1874年に「牡丹社事件」が発生した後、清国は国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、1887年に「台湾省」を設けました。当時、清国の台湾に対する統制は全島の約三分の一であったにも拘らず、台湾全島を無断に承認し、清国の版図に入れ国土の一部としました。このように、清国は「不完全」な台湾領土主権を約10年間所有していました。台湾は植民地にすらなっていない「無主地」からいきなり清国国土の一部になり、さらに、1895年の下関条約により台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止されました。
日本統治時代(1895~1945年)
日清戦争後、下関条約が締結されました。条約第二条「China cedes to Japan in perpetuity and full sovereignty the following territories」に書いてあるように、清国は台湾領土の完全主権(full sovereignty)を大日本帝国天皇に永久に割譲しました。言い換えれば、日本天皇は「条約」を通じて台湾領土権を得たのであり、「発見(discovery)」、「宣示(claim)」、「侵略(invasion)」、「征服(conquest)」、「統制(control)」、といういわゆる殖民地のプロセスを経て台湾を手に入れたのではありません。日本は殖民地化を目的とする台湾侵略の戦争を起さなかったし、「征服」により台湾の領土主権を得たのでもなく、合法的に領土移転の条約に拠って取得しました。
日本帝国は統治初期において、この「不完全な清国国土」を継承するのに大変苦労しました。また初期段階の抗日武装運動に対しては、武力鎮圧で対応していました。その後20年にわたり台湾総督府は同化政策を推進し、具体的な政策としては地方自治を拡大するための総督府評議会の設置、日台教学制度及び共婚法の公布など同化を促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を実現しました。さらに鉄道や水利事業などを整える建設も行われました。1937年の日中戦争の勃発を背景に皇民化政策が実行され、1945年4月1日に天皇の詔書により台湾は日本の国土として正式に編入されました。
以上のように、台湾が本格的に発展し始めたのは日本統治時代になってからです。1895年調印の下関条約により台湾は日本の領土となりましたが、日本の正式な国土として編入されたのは50年後の1945年です。その間、日本は実情を踏まえた法律を整備することに時間を費やし、段階を踏んで台湾を治め、最終的に参政権を与え、徴兵制も実施しました。従って、「台湾はかつて日本の植民地だ」という見解は、法理上においては正確ではありません。
上述のとおり、台湾の領土主権(territorial sovereignty)は歴史的には日本によって構築され、今なお日本天皇が唯一且つ完全なる台湾主権の所有者となります。
オランダ植民統治時代(1624~1662年)
ヨーロッパ船として初めて台湾に到達したのはポルトガル船であり、船員が島の美しさに感動し「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだのがフォルモサ(Formosa)の由来とされています。
1624年から1662年の間、オランダとスペインはフォルモサの部分的な地域を占領していました。オランダは大航海時代の掟:「発見(discovery)」、「宣示(claim)」、「侵略(invasion)」、「征服(conquest)」、「統制(control)」の段階を踏まえて、台湾(南部と北部のみ)を占領しました。当時の台湾は島全体を統一し、主権を宣告できる政府が存在しませんでした。歴史上、「大肚王国」は現れたものの、島の一部しか統治しておらず、完全なる主権(full sovereignty)は有していませんでした。このような状態の台湾は西洋覇権国家の植民地として最適ではあったものの、オランダが台湾を占領している38年間、その範囲は台湾の南部及び北部のみであり、島全体を制御できていませんでした。理由としては当時の台湾は衛生環境が悪く、地形の関係で開墾が困難、また水源の欠如に加えて、オランダ本国との距離が遠かったことなどが挙げられます。その結果、オランダからの大量移民はなく、台湾はオランダの植民地というよりも、貿易の中継地と言ったほうが適切でした。なお、台湾の北部を占領したスペインもほぼ同じような状況でした。
鄭氏政権時代(1662~1683年)
1662年から1683年、鄭成功はオランダ人を駆逐し、オランダに代わって台湾を占領しました。その目的は清朝を倒し明朝を甦らせることであり、身の安全を保障する拠点を確保するためでした。鄭氏は「東寧王国」を建国しましたが、その範囲は現在の台湾台南地区に過ぎず全島でなかったため、完全なる主権(full sovereignty)も有しませんでした。また、鄭氏政権は清帝国に対抗するために「軍団」の形態で台湾に来たので、当然清からの大量移民は不可能でした。従って、台湾は鄭氏政権の植民地でも国土でもなく、占領地に過ぎませんでした。
清朝統治時代(1683~1895年)
鄭成功がオランダ人を駆逐した後、台湾占領地を移転する「条約」を交わしました。しかし、清国が鄭氏政権を征服した後、双方は条約を締結しませんでした。元々、清国は反逆軍の鄭氏政権を滅ぼすために台湾島を攻撃・制圧したのであり、台湾島を領有する事に対しては消極的でした。(征服後も鄭氏の残留部隊や親族は全て清国に送還しています。また、反乱を防ぐために「海禁令」を公布し、清国人民が台湾へ渡ることを禁じました。)多くの文献に示されているように、清国は台湾を「化外の地、化外の民」と見なして、殖民化することは、念頭にすらありませんでした。
ところが、19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が中国に進出してくると、台湾にもその影響が及ぶようになりました。さらに、1874年に「牡丹社事件」が発生した後、清国は国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、1887年に「台湾省」を設けました。当時、清国の台湾に対する統制は全島の約三分の一であったにも拘らず、台湾全島を無断に承認し、清国の版図に入れ国土の一部としました。このように、清国は「不完全」な台湾領土主権を約10年間所有していました。台湾は植民地にすらなっていない「無主地」からいきなり清国国土の一部になり、さらに、1895年の下関条約により台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止されました。
日本統治時代(1895~1945年)
日清戦争後、下関条約が締結されました。条約第二条「China cedes to Japan in perpetuity and full sovereignty the following territories」に書いてあるように、清国は台湾領土の完全主権(full sovereignty)を大日本帝国天皇に永久に割譲しました。言い換えれば、日本天皇は「条約」を通じて台湾領土権を得たのであり、「発見(discovery)」、「宣示(claim)」、「侵略(invasion)」、「征服(conquest)」、「統制(control)」、といういわゆる殖民地のプロセスを経て台湾を手に入れたのではありません。日本は殖民地化を目的とする台湾侵略の戦争を起さなかったし、「征服」により台湾の領土主権を得たのでもなく、合法的に領土移転の条約に拠って取得しました。
日本帝国は統治初期において、この「不完全な清国国土」を継承するのに大変苦労しました。また初期段階の抗日武装運動に対しては、武力鎮圧で対応していました。その後20年にわたり台湾総督府は同化政策を推進し、具体的な政策としては地方自治を拡大するための総督府評議会の設置、日台教学制度及び共婚法の公布など同化を促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を実現しました。さらに鉄道や水利事業などを整える建設も行われました。1937年の日中戦争の勃発を背景に皇民化政策が実行され、1945年4月1日に天皇の詔書により台湾は日本の国土として正式に編入されました。
以上のように、台湾が本格的に発展し始めたのは日本統治時代になってからです。1895年調印の下関条約により台湾は日本の領土となりましたが、日本の正式な国土として編入されたのは50年後の1945年です。その間、日本は実情を踏まえた法律を整備することに時間を費やし、段階を踏んで台湾を治め、最終的に参政権を与え、徴兵制も実施しました。従って、「台湾はかつて日本の植民地だ」という見解は、法理上においては正確ではありません。
上述のとおり、台湾の領土主権(territorial sovereignty)は歴史的には日本によって構築され、今なお日本天皇が唯一且つ完全なる台湾主権の所有者となります。