「カイロ宣言」の信憑性
台湾の領土主権を議論する際に、「カイロ宣言」(Cairo Declaration)が中華民国及び中国(中華人民共和国)への根拠として取上げられています。また、台湾人が受ける歴史教育も「台湾はカイロ宣言により中華民国に渡った」となっています。台湾地位の正常化を進めるにあたって、台湾と中華民国の関係を明確にする必要があるため、「カイロ宣言」に言及する必要がありますが、結論から言うと、「カイロ宣言」は語るに値しません。以下、「カイロ宣言」の主要な論点を取上げます。
カイロ宣言の性質
「カイロ宣言」は私的協議(private understandings)性質をもった「戦時声明」(wartime statements)です。このような「声明」は戦後において「道義上の問題」はあっても、「法理上の必要性」はありません。台湾帰還は蒋介石(当時中国代表)の「承諾(commitment)」とルーズベルト(アメリカ)の「保証 (guarantee)」に基づく条件付きの政治取引です。但し、その後局勢が変わったため、「対価関係」の存在が消え、実行できなくなりました。
① 承諾主体(蒋介石)の身分が変化しました。
中華民国は中国共産党に敗れた結果、中国を代表する立場から、亡命政権身分となりました。
② 新しく中国代表となった毛沢東が朝鮮戦争に介入しました。
中国は勢力を拡大するために侵略をしないという蒋介石のアメリカに対する約束が破られました。
③ 中国は共産国家になりました。
中国の代表は蒋介石から毛沢東になったため、台湾を中国に返還することはアメリカの反共方針に反します。
宣言自体の問題点
① 宣言の日時が記されていません。
② ルーズベルト、チャーチル、蒋介石の3首脳のいずれの署名もなく、事後による追認もなく、また授権もありません。
③ そもそもコミュニケではなく、プレスリリース、声明書に過ぎません。
④ 所有者である日本は参与していませんでした。
宣言内容の問題点(下記の英文原文の問題点)
① 日本は武力(by force)で台湾を取得したとあるが…
日本は国際法に従い、「下関条約」で台湾を得ました。また、日清戦争の際に、台湾は戦場ではありませんでした。
② 日本は中国人から台湾を盗んだ (has stolen from the Chinese)とあるが…
「下関条約」で得た台湾が盗んだものであるならば、1898年にアメリカがパリ条約でスペインから得たグアム、フィリピン、プエルトリコも同様に盗んだと見なされるのでしょうか。
③ 台湾を中華民国に帰還するのは当然(will of course be)とあるが…
中国は台湾の「完全なる主権」(full sovereignty over Formosa)を構築したことがなく、1912年1月1日より施行された中華民国憲法においても台湾はその固有領土に入っていません。従って、台湾を中華民国に帰還することは不可能です。
その他説明:
法的な拘束力について
●所謂「カイロ宣言」のタイトルは「Press communiqué」であり、つまり、プレスリリースです。1945年8月に発されるポツダム宣言に出てきた「Cairo Declaration」はあとから付けられたタイトルです。
●1969年に条約法に関するウィーン条約(略称:ウィーン条約法条約, Vienna Convention on the Law of Treaties)が署名されました。これは条約法に関する一般条約で、国連国際法委員会が条約に関する慣習国際法を法典化したものです。ここで論及されるのは「協定」agreement及び「正式文書」instrumentであり、新聞公報Press communiquéは対象となりません。
●カイロ宣言は有効だと主張する中国人学者はイギリス国際法学者の次のような解釈を引用しています。「国家元首または国家を代表した政府が達成した協議で、確実な行為準則を明示した国際宣言は、各該当国家に法律的拘束力を有すと公認される」。であるならば、1895年に清国と日本が締結した下関条約の法律効力は、蒋介石が日本に宣戦布告後、一方的に破棄できるものではありません。
●戦後、交戦国は平和条約を締結し、「戦争状態」(the state of war)を終結させます。平和条約発効後、戦時に関連する声明、宣言、公報、公告、及び降伏書は全て無効になるのが一般的です。戦争期間中、「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」に類似する新聞公報は計14ありましたが、どれが基準になるのでしょうか。
サンフランシスコ条約との比較:
●サンフランシスコ平和条約第二条b項において、日本は譲渡先を指定せずに台湾の「主権権利」を放棄しました。条約第二十三条a項では、アメリカは主たる占領国として定義されています。従って、台湾は中華民国や中華人民共和国とは何の関係もありません。
●サンフランシスコ平和条約は日本を含み、48カ国が正式に署名した法律文書であり、「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」とは全く異なります。
●平和条約発効により日本は主権国家として復帰する一方、第二条b項の定めにより、台湾主権の「主権権利」を失いました。そして、日本の台湾に対する「主権義務」は、台湾の被占領状態によって宙ぶらり状態になりました。(言い換えれば、「禁治産」のように、台湾に対する「支配力(interest)」は喪失したものの、所有権は移転されていません。)そのため、台湾の「法理上の現在地位」(de jure present status)は依然とした状態(remain unchanged)です。サンフランシスコ平和条約にて定めるように、台湾は中華民国及び中国(中華人民共和国)のどちらにも属しません。
更に言えば、アメリカはそもそも1951年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約にて台湾の「法理上の未来地位」(de jure future status)を決めるつもりはありませんでした。このことは、アメリカ駐英大使Giffordが1951年6月に国務院(the Secretary of State)にあてた秘密電報にも記されており、英米は台湾を中華民国及び中華人民共和国に割譲しない方針を固めていたことがわかります。
カイロ宣言の性質
「カイロ宣言」は私的協議(private understandings)性質をもった「戦時声明」(wartime statements)です。このような「声明」は戦後において「道義上の問題」はあっても、「法理上の必要性」はありません。台湾帰還は蒋介石(当時中国代表)の「承諾(commitment)」とルーズベルト(アメリカ)の「保証 (guarantee)」に基づく条件付きの政治取引です。但し、その後局勢が変わったため、「対価関係」の存在が消え、実行できなくなりました。
① 承諾主体(蒋介石)の身分が変化しました。
中華民国は中国共産党に敗れた結果、中国を代表する立場から、亡命政権身分となりました。
② 新しく中国代表となった毛沢東が朝鮮戦争に介入しました。
中国は勢力を拡大するために侵略をしないという蒋介石のアメリカに対する約束が破られました。
③ 中国は共産国家になりました。
中国の代表は蒋介石から毛沢東になったため、台湾を中国に返還することはアメリカの反共方針に反します。
宣言自体の問題点
① 宣言の日時が記されていません。
② ルーズベルト、チャーチル、蒋介石の3首脳のいずれの署名もなく、事後による追認もなく、また授権もありません。
③ そもそもコミュニケではなく、プレスリリース、声明書に過ぎません。
④ 所有者である日本は参与していませんでした。
宣言内容の問題点(下記の英文原文の問題点)
① 日本は武力(by force)で台湾を取得したとあるが…
日本は国際法に従い、「下関条約」で台湾を得ました。また、日清戦争の際に、台湾は戦場ではありませんでした。
② 日本は中国人から台湾を盗んだ (has stolen from the Chinese)とあるが…
「下関条約」で得た台湾が盗んだものであるならば、1898年にアメリカがパリ条約でスペインから得たグアム、フィリピン、プエルトリコも同様に盗んだと見なされるのでしょうか。
③ 台湾を中華民国に帰還するのは当然(will of course be)とあるが…
中国は台湾の「完全なる主権」(full sovereignty over Formosa)を構築したことがなく、1912年1月1日より施行された中華民国憲法においても台湾はその固有領土に入っていません。従って、台湾を中華民国に帰還することは不可能です。
その他説明:
法的な拘束力について
●所謂「カイロ宣言」のタイトルは「Press communiqué」であり、つまり、プレスリリースです。1945年8月に発されるポツダム宣言に出てきた「Cairo Declaration」はあとから付けられたタイトルです。
●1969年に条約法に関するウィーン条約(略称:ウィーン条約法条約, Vienna Convention on the Law of Treaties)が署名されました。これは条約法に関する一般条約で、国連国際法委員会が条約に関する慣習国際法を法典化したものです。ここで論及されるのは「協定」agreement及び「正式文書」instrumentであり、新聞公報Press communiquéは対象となりません。
●カイロ宣言は有効だと主張する中国人学者はイギリス国際法学者の次のような解釈を引用しています。「国家元首または国家を代表した政府が達成した協議で、確実な行為準則を明示した国際宣言は、各該当国家に法律的拘束力を有すと公認される」。であるならば、1895年に清国と日本が締結した下関条約の法律効力は、蒋介石が日本に宣戦布告後、一方的に破棄できるものではありません。
●戦後、交戦国は平和条約を締結し、「戦争状態」(the state of war)を終結させます。平和条約発効後、戦時に関連する声明、宣言、公報、公告、及び降伏書は全て無効になるのが一般的です。戦争期間中、「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」に類似する新聞公報は計14ありましたが、どれが基準になるのでしょうか。
サンフランシスコ条約との比較:
●サンフランシスコ平和条約第二条b項において、日本は譲渡先を指定せずに台湾の「主権権利」を放棄しました。条約第二十三条a項では、アメリカは主たる占領国として定義されています。従って、台湾は中華民国や中華人民共和国とは何の関係もありません。
●サンフランシスコ平和条約は日本を含み、48カ国が正式に署名した法律文書であり、「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」とは全く異なります。
●平和条約発効により日本は主権国家として復帰する一方、第二条b項の定めにより、台湾主権の「主権権利」を失いました。そして、日本の台湾に対する「主権義務」は、台湾の被占領状態によって宙ぶらり状態になりました。(言い換えれば、「禁治産」のように、台湾に対する「支配力(interest)」は喪失したものの、所有権は移転されていません。)そのため、台湾の「法理上の現在地位」(de jure present status)は依然とした状態(remain unchanged)です。サンフランシスコ平和条約にて定めるように、台湾は中華民国及び中国(中華人民共和国)のどちらにも属しません。
更に言えば、アメリカはそもそも1951年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約にて台湾の「法理上の未来地位」(de jure future status)を決めるつもりはありませんでした。このことは、アメリカ駐英大使Giffordが1951年6月に国務院(the Secretary of State)にあてた秘密電報にも記されており、英米は台湾を中華民国及び中華人民共和国に割譲しない方針を固めていたことがわかります。