下関条約(馬関条約)及びサンフランシスコ平和条約
台湾は下関条約によって日本の植民地となり、戦後サンフランシスコ平和条約によって日本から分離したと一般的に認識されています。以下、台湾の位置づけを左右するこの二つの条約のポイントとその関連事項をご紹介します。
下関条約の前文
大日本國皇帝陛下及大淸國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ囘復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル(以下省略)
下関条約の第二条
China cedes to Japan in perpetuity and full sovereignty the following territories, together with all fortifications, arsenals, and public property thereon:--
淸國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城壘兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス
二、臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼
下関条約の第十一条
本約ハ大日本國皇帝陛下及大淸國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ右批准ハ芝罘ニ於テ明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日ニ交換セラルヘシ
サンフランシスコ平和条約第二条b項
apan renounces all right, title and claim to Formosa and the Pescadores.
(訳:日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する)
ポイント:
1.下関条約は皇帝対皇帝の条約であるため、台湾主権の所有者は天皇です。
下関条約の前文及び第11条で、大日本国皇帝(天皇)陛下と大清国皇帝陛下との間でこの条約が締結された事を確認できます。即ち、主権は皇帝が所有し、皇帝以外は何人とも処分することは出来ません。その後、サンフランシスコ平和条約で、日本政府は台湾の「主権権利」即ち、管轄権、処分権、主張権を放棄しましたが、「領土主権」は依然として天皇陛下が所有しています。(ただし、現行の日本国憲法及びサンフランシスコ平和条約の下で、天皇陛下の国務権能と発言権が失われ、主張することができない状態です)。わかりやすく言うと、 日本政府はいわゆる国の管理者であり、主権の所有者ではありません。
2.植民地は割譲できますが、領土はできません。
国際法上、割譲できる領土は固有領土ではないとされています。下関条約で日本が清朝から台湾と遼東半島を受け取りましたが、その後割譲された遼東半島は三国(ドイツ・フランス・ロシア)の干渉により、清に返還されました。それは、台湾は清の拓殖地で、遼東半島は清の固有領土のためです。(台湾割譲を受けた日本は終戦直前に「台湾主権」の構築を完成させ、台湾を日本の領土としました。これについてコラム「台湾の近代史ー主権の観点から」を参照ください。)
3.日本が放棄したのは「一部の主権」にすぎません。
サンフランシスコ平和条約の第2条b項の原文に「Japan renounces all right, title and claim to Formosa and the Pescadores.」とあります。即ち、日本が「renounces(放棄)」したのは「all right, title and claim(full right)」であり、「full sovereignty」ではありません。ちなみに、sovereignty(主権)とはright,title,claim,responsibility,duty,obligation,power,allegiance等によって構成されています。
4.「放棄」と「割譲」は同義ではありません。
当然なことですが、下関条約第二条と比較すれば、より明白です。原文では「China cedes to Japan in perpetuity and full sovereignty…」とあり「cedes(割譲)」の後に続くのは割譲先の国であるJapan(日本)と明記されています。しかも「full sovereignty」と明記されています。ところが、サンフランシスコ条約では「renounces」の後どの国に対し放棄するかが明記されていません。従って、台湾はまだ日本に「cedes(割譲)」されたままで、日本は台湾の一部の主権を「renounces(放棄)」しただけです。
5.放棄された台湾の権利がどこに帰属するのかが明確にされていません
日本はサンフランシスコ平和条約の第2条b項で台湾及び澎湖諸島を放棄したとされていますが、放棄された台湾の権利がどこに帰属するのかは明確にされていません。また、条約第26条では、日本は「この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする」と定められているため、日本は平和条約締結後も「中華民国政府と中華人民共和国政府のどちらと平和条約を締結するか」という問題に面することとなりました。この時、中華民国政府はアメリカを通じて日本に圧力をかけ、1952年4月に日本と中華民国は日華平和条約を締結しました。しかし日華平和条約でも放棄された台湾の主権がどこに移転したのかは明確にされませんでした。
下関条約の前文
大日本國皇帝陛下及大淸國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ囘復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル(以下省略)
下関条約の第二条
China cedes to Japan in perpetuity and full sovereignty the following territories, together with all fortifications, arsenals, and public property thereon:--
淸國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城壘兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス
二、臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼
下関条約の第十一条
本約ハ大日本國皇帝陛下及大淸國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ右批准ハ芝罘ニ於テ明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日ニ交換セラルヘシ
サンフランシスコ平和条約第二条b項
apan renounces all right, title and claim to Formosa and the Pescadores.
(訳:日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する)
ポイント:
1.下関条約は皇帝対皇帝の条約であるため、台湾主権の所有者は天皇です。
下関条約の前文及び第11条で、大日本国皇帝(天皇)陛下と大清国皇帝陛下との間でこの条約が締結された事を確認できます。即ち、主権は皇帝が所有し、皇帝以外は何人とも処分することは出来ません。その後、サンフランシスコ平和条約で、日本政府は台湾の「主権権利」即ち、管轄権、処分権、主張権を放棄しましたが、「領土主権」は依然として天皇陛下が所有しています。(ただし、現行の日本国憲法及びサンフランシスコ平和条約の下で、天皇陛下の国務権能と発言権が失われ、主張することができない状態です)。わかりやすく言うと、 日本政府はいわゆる国の管理者であり、主権の所有者ではありません。
2.植民地は割譲できますが、領土はできません。
国際法上、割譲できる領土は固有領土ではないとされています。下関条約で日本が清朝から台湾と遼東半島を受け取りましたが、その後割譲された遼東半島は三国(ドイツ・フランス・ロシア)の干渉により、清に返還されました。それは、台湾は清の拓殖地で、遼東半島は清の固有領土のためです。(台湾割譲を受けた日本は終戦直前に「台湾主権」の構築を完成させ、台湾を日本の領土としました。これについてコラム「台湾の近代史ー主権の観点から」を参照ください。)
3.日本が放棄したのは「一部の主権」にすぎません。
サンフランシスコ平和条約の第2条b項の原文に「Japan renounces all right, title and claim to Formosa and the Pescadores.」とあります。即ち、日本が「renounces(放棄)」したのは「all right, title and claim(full right)」であり、「full sovereignty」ではありません。ちなみに、sovereignty(主権)とはright,title,claim,responsibility,duty,obligation,power,allegiance等によって構成されています。
4.「放棄」と「割譲」は同義ではありません。
当然なことですが、下関条約第二条と比較すれば、より明白です。原文では「China cedes to Japan in perpetuity and full sovereignty…」とあり「cedes(割譲)」の後に続くのは割譲先の国であるJapan(日本)と明記されています。しかも「full sovereignty」と明記されています。ところが、サンフランシスコ条約では「renounces」の後どの国に対し放棄するかが明記されていません。従って、台湾はまだ日本に「cedes(割譲)」されたままで、日本は台湾の一部の主権を「renounces(放棄)」しただけです。
5.放棄された台湾の権利がどこに帰属するのかが明確にされていません
日本はサンフランシスコ平和条約の第2条b項で台湾及び澎湖諸島を放棄したとされていますが、放棄された台湾の権利がどこに帰属するのかは明確にされていません。また、条約第26条では、日本は「この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする」と定められているため、日本は平和条約締結後も「中華民国政府と中華人民共和国政府のどちらと平和条約を締結するか」という問題に面することとなりました。この時、中華民国政府はアメリカを通じて日本に圧力をかけ、1952年4月に日本と中華民国は日華平和条約を締結しました。しかし日華平和条約でも放棄された台湾の主権がどこに移転したのかは明確にされませんでした。