なぜ「Chinese Taipei」?
中華民国という国名は、中華民国政府が「全中国 (China) を代表する主権国家」であるという認識に基づいています。そのために、1971年に国際連合で中華人民共和国が「全中国を代表する主権国家」として承認されてからは、国連機関では「中華民国」 (Republic of China) と称するケースがなくなり、オリンピックなどのスポーツ大会や国際機関においては、Chinese Taipei (チャイニーズタイペイ、中華台北)という名称が使用されています。当時、国民党政府は台湾人民に「これは中国の圧力による結果」と説明していました。また、「台湾」ではなく、「中華民国」と自称し続けなければならない理由として“中国が攻めてくるから”と教育しています。さらに、中国のメディアは台湾は「Chinese Taipei」に改名されたと報道し、「中国台北」や「中華台北」に訳して、中国と台湾は「一つの中国」だと喜びました。今回は、なぜ「Chinese Taipei 」でなければならないかについてここで説明します。
歴史に詳しい方は覚えているかもしれませんが、第二次世界大戦期間、ナチス・ドイツの侵攻を受け、国家が占領されたポーランド大統領イグナツィ・モシチツキ(Ignacy Mościcki)は1939年9月に政府(政権)をパリに移しました。国際上では「Polish exile government in Paris」と認定し、略して「Polish Paris」になります。後ほど、フランスもドイツに占領され、ポーランド亡命政府は再びロンドンに拠点を移しました。国際社会では「Polish exile government in London」と再認定し、略して「Polish London」になります。其の他にも、朝鮮亡命政府が上海にいることで、国際上は「Korean exile government in Shanghai」と呼び、略称「Korea Shanghai」、フランス亡命政府がロンドンにいるとき、国際上は「France exile government in London」と認定し、略して「France London」になります。これは亡命政府というのは他国の都市しか借りられなく、亡命先の国全体を借用することはできないからです。
1949年に、中国の元代表政府「中華民国」は共産党に消滅され、占領地の「台北」に移転しました。当時すでに亡命政府にはなったものの、まだアメリカを中心とする多くの国家と外交関係を保持していました。しかし、1971年に中華民国亡命政府は国連に放逐され、国際社会にも「承認」されなくなりました。「中華民国」が使えなくなったため、国際社会では「中華民国」の代わりに「Chinese exile government in Taipei」(台北に存在する中国亡命政府)と称し、略して「Chinese Taipei」となります。
太平洋戦争後、台湾は主要占領国アメリカの代理「蒋介石集団」に長期間に渡って占領され、未だに軍事占領の状態が続いています。台湾は「圧制」されているものの、「改名」されていません。実際に「改名」されたのは「中華民国」です。従って、中国のメディアは「Chinese Taipei」だから、台湾は中国の一部と主張するのは全くの誤解です。
また、何故「Chinese Taiwan」ではないかについて、亡命した中華民国は1949年12月6日に「都を暫く台北に遷す」と公布し、その範囲は台湾全体に及んでいないからです。それは、前例のように、亡命政府は「都市」しか名にする事しか出来ないうえ、亡命先は常に自分の領土外の外国都市ですから。それ故の「Chinese Taipei」です。
現在台湾は国際試合や国際機構に参加する際の名称は全て「Chinese Taipei」であることからも、つぎの事項が容易に推論、理解できるかと思います。
一、中華民国は確かに「中国」の亡命政権、「Chinese Taipei」は即ち(台北に存在する中国亡命政府)です。
二、中国亡命政権の亡命先は台北で、中国の都市ではありません。従って、台湾は中国の一部ではないことが立証できます。
三、正式国際機構に参加する場合、亡命の中華政府は「台湾」を代表できず、台湾人が代表するのも「台湾」ではなく、亡命した中国政権を代表することになります。